父と母? オトンとオカン?
- ディーン・ノダ

- 6 時間前
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朝神社、夜神社、どっち派ですか?

と、聞かれたら、私はたぶん少しだけ考えるふりをしてから、「どっちも」と、ずるいと答えると思う。
ずるい、というのは、どちらもこちらの心の隙間に、うまく入り込んでくるからだ。
神社といえば朝、というのは、たしかに一理ある。空気はまだ誰のものにもなっていなくて、ひんやりとしているくせに、どこかやわらかい。
願い事も、まだ使い古されていない言葉でできている気がして、口に出すのにためらいがない。
「ちょっと聞いてよ」
そんなふうに、つい話しかけたくなるのが朝の神社だ。
たぶんそこには、母親のような受け止め方がある。良いも悪いも関係なく、とりあえず全部引き受けてくれる、あの感じ。
一方で、夜の神社はどうだろう。
先日、久しぶりに足を踏み入れたとき、まず思ったのは、「あ、これはしゃべりすぎると怒られるやつだ」という、よくわからない緊張感だった。
シーン、としている。
音がない、というよりも、音が遠くへ追いやられているような静けさだ。
日中にはたしかにあったはずの生活音や、どこかの動物の気配が、すべて一歩引いて、こちらを見ている。その中心に、自分がぽつんと立っている。
ちょっとした異国だ。
いや、異国というより、現実の裏側にまわりこんでしまった感じに近い。
夜の神社は、何も言わない。
こちらが何を考えていようと、評価もしないし、相槌も打たない。ただ、そこにいる。
だからこそ、こちらも余計な言葉を削ぎ落としてしまう。お願い事というより、独り言に近いものになる。
昭和の父親みたいだな、と思った。多くを語らず、でも、ちゃんと聞いているあの感じ。
返事はないのに、なぜか「聞いてもらえた」と思える、不思議な沈黙。
朝の神社が「差し出す場所」だとしたら、夜の神社は「置いていく場所」なのかもしれない。
抱えているものを、きれいに整えて渡すのが朝で、形にならないまま、そっと置いて帰るのが夜。
どちらがいい、という話ではなくて、その日の自分が、どちらを必要としているか、なのだろう。
さて、あなたはどっち派ですか?
それとも、やっぱり「どっちも」と思うだろうか。
夜の神社も、これはこれでヨシ。



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