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父と母? オトンとオカン?

  • 執筆者の写真: ディーン・ノダ
    ディーン・ノダ
  • 6 時間前
  • 読了時間: 2分

朝神社、夜神社、どっち派ですか?


YORISOTTE筆文字セラピスト(松戸、市川、柏)
YORISOTTE筆文字セラピスト(松戸、市川、柏)

と、聞かれたら、私はたぶん少しだけ考えるふりをしてから、「どっちも」と、ずるいと答えると思う。


ずるい、というのは、どちらもこちらの心の隙間に、うまく入り込んでくるからだ。


神社といえば朝、というのは、たしかに一理ある。空気はまだ誰のものにもなっていなくて、ひんやりとしているくせに、どこかやわらかい。


願い事も、まだ使い古されていない言葉でできている気がして、口に出すのにためらいがない。


「ちょっと聞いてよ」


そんなふうに、つい話しかけたくなるのが朝の神社だ。


たぶんそこには、母親のような受け止め方がある。良いも悪いも関係なく、とりあえず全部引き受けてくれる、あの感じ。


一方で、夜の神社はどうだろう。


先日、久しぶりに足を踏み入れたとき、まず思ったのは、「あ、これはしゃべりすぎると怒られるやつだ」という、よくわからない緊張感だった。


シーン、としている。

音がない、というよりも、音が遠くへ追いやられているような静けさだ。


日中にはたしかにあったはずの生活音や、どこかの動物の気配が、すべて一歩引いて、こちらを見ている。その中心に、自分がぽつんと立っている。


ちょっとした異国だ。


いや、異国というより、現実の裏側にまわりこんでしまった感じに近い。


夜の神社は、何も言わない。


こちらが何を考えていようと、評価もしないし、相槌も打たない。ただ、そこにいる。


だからこそ、こちらも余計な言葉を削ぎ落としてしまう。お願い事というより、独り言に近いものになる。


昭和の父親みたいだな、と思った。多くを語らず、でも、ちゃんと聞いているあの感じ。

返事はないのに、なぜか「聞いてもらえた」と思える、不思議な沈黙。


朝の神社が「差し出す場所」だとしたら、夜の神社は「置いていく場所」なのかもしれない。


抱えているものを、きれいに整えて渡すのが朝で、形にならないまま、そっと置いて帰るのが夜。


どちらがいい、という話ではなくて、その日の自分が、どちらを必要としているか、なのだろう。


さて、あなたはどっち派ですか?


それとも、やっぱり「どっちも」と思うだろうか。


夜の神社も、これはこれでヨシ。


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