頼りになるなぁ。
- ディーン・ノダ

- 10 時間前
- 読了時間: 3分


G/Wは地方で満喫した。
と書くと、なんだか充実した人間のように見えるが、実際は「満喫」という言葉の中身を、行ったり来たりしながら確かめていた、という方が近い。
先日、移住者の方と話した内容を引きずりつつ、ホームグラウンドではない場所での生活を、あらためて自分の体に通してみる。
今回は仕事でもなく、誰かに見せるためでもなく、純粋に
ゆっくりまったりじっくり
この三つを合言葉にして過ごしてみた。
到着したばかりの頃はいい。懐かしい、落ち着く、あれを食べたい、ただぼんやりしたい
そういう感情が先に立ち、新鮮さに包まれる。
だが感情というものは、案外回転が早い。
ひと通り巡ると、すぐに顔を出す。
「さて、何をしようか?」
この問いに、明確な答えがないと、人は驚くほど簡単に流される。スマホを手に取り、テレビをつけ、何かを口に運ぶ。
惰性は、音もなく生活に入り込む。
これは田舎か都会かの問題ではない。「いつもと違う場所にいる」という、それだけで起きる現象なのだと思う。
たとえば転職したばかりの頃。新しい職場で、自分の仕事も役割もまだ輪郭を持たないあの感じに似ている。
覚えることはあるのに、やるべきことが自分の中に定着していない、あの不安定さ。
振り返ってみると、自分は「ゆっくり、まったり、じっくり」が、どうやら得意ではないらしい。
では、いつものように仕事や役割を作ればいいのか。
いや、それは少し芸がない。
場所を変えただけで、やっていることが同じなら、今回ここに来た意味が薄れてしまう。
そんなとき、頼りになるのが、自然や動物の存在だった。
彼らは、常に動いている。
けれど、人間のように「何をしようか」と迷っている気配はない。
ただ、やるべきことをやっている。
軒下にはツバメの巣があった。
運よく、巣作りの様子を見ることができたのだが、これが見事だった。泥を少しずつ運び、こちらの目では気づかないほどの細かさで積み上げていく。
夜になると、ぴたりと動きを止める。視力が弱く、危険を避けるために活動を止めるらしい。
近づいても動かないその姿は、無防備というより、覚悟のようにも見えた。
そして朝になれば、また飛ぶ。軽やかで、無駄がなく、ただ美しい。
少し足を延ばせば、田園風景が広がる。
風が動き、太陽が照らし、水が流れる。こちらもまた、止まることはない。
そうか、と思う。
ゆっくり、まったり、じっくり、というのは、何もしないことではない。むしろ、自然のように「意味を持って動き続けること」なのかもしれない。
意味があるから動く。意図があるから届く。意義があるから残る。
その単純な順番を、体で理解するには、少し時間がかかる。
まだ実践の途中だが、自然と向き合う意味が、年を重ねるごとにじわじわと分かってきた気がする。
と、そんなことを、デジタルの画面に向かって書いている。
なんとも現代的で、少しだけ可笑しい。
勉強せねば、である。



コメント