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何にもないって事 そりゃあなんでもアリって事

  • 執筆者の写真: ディーン・ノダ
    ディーン・ノダ
  • 4月29日
  • 読了時間: 2分
YORISOTTE筆文字セラピスト
YORISOTTE筆文字セラピスト

先日、とある小さな小さな漁業の町に移住された方と話をした。


移住して五年以上。


つまり、憧れだけでは続かない時間を、ちゃんとそこで暮らしている人だ。


まず私は、いかにも“こちら側”の人間らしく聞いてしまう。


「田舎って、不便じゃないですか?」


今思えば、ずいぶん雑な問いだ。


けれど、その雑さを軽やかに受け流すように、彼は言ったのだ。


「何にもないって事 そりゃあなんでもアリって事」


ああ、これは反則だなと思う。

整いすぎている。


もちろん実際には、もっと丁寧で、生活の匂いのする言葉だった。だけど、その核心だけを抜き出すと、この一行になる。


“何でもある”という状態は、実はすでに誰かの手で完成されている世界だ。

選ぶことはできるが、つくる余白は少ない。

完成されたジグソーパズルの、好きなピースを選ぶようなもの。


一方で、“何もない”はどうだろう。最初の一手すら決まっていない。


不安だし、面倒だし、正直ちょっと怖い。


でも、その怖さの正体は、自由そのものだ。


0から1へ。その一歩は小さいくせに、やたらと重い。

けれど一度踏み出せば、2にも3にも、場合によっては10にもなる。


都会での暮らしに慣れていると、つい「どれだけ揃っているか」で物事を測ってしまう。

店の数、交通の便、選択肢の多さ。どれも正しい指標だし、実際に便利だ。


ただ、その物差しで田舎を見ると、どうしたって負ける。

そもそも土俵が違うのだから、当たり前なのだけれど。


彼の言葉を借りるなら、比べるものではなく、育てるものなのだろう。


何もない場所は、空っぽではない。

まだ名前のついていない可能性が、ただそこに置かれているだけだ


元・田舎出身の自分としては、どこか懐かしくて、そして少しだけ羨ましかった。

あの“何もなさ”の中に、もう一度身を置いてみたら、今とは違う何かを、もう少しだけ上手に始められる気がする。

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