小銭文化を継承
- ディーン・ノダ

- 1 日前
- 読了時間: 2分
最近、現金を使っていますか?

こう書き出しておきながら、私自身も日々の支払いの大半を、すました顔でキャッシュレスに委ねている。
ピッ、とかざせば済む世界は、あまりにも軽やかで、そして少しだけ味気ない。
それでも、現金が必要になる場面というのは、しぶとく、そしてどこか人間くさく残っている。
ひとつめ。
現金しか使えない店。これはもう、抗う余地がない。現金を出すしかない。潔い世界だ。
ふたつめ。
小銭貯金。財布のなかでじゃらじゃらと増殖する硬貨たちを、一定のタイミングで捕獲し、100均の貯金箱へと移送する。
いわば財布のダイエットである。油断するとすぐにリバウンドするあたりも、なんだか現実的だ。
そして三つめ。
小銭貯金からの、子どもへのお小遣い。
この三つめが、最近の私にとってなかなか興味深い。
かつては、お小遣いといえば紙幣だった。きちんと折られたお札を渡すと、なんとなく「それらしい」感じがする。
しかし、どうにもこうにも、金額がふわっとしがちなのだ。少し多めに渡してしまったり、逆に妙な遠慮が生まれたりする。その遠慮は自分自身。子どもに遠慮などの文字はなく、秒で受領する。さすが。
その点、小銭はいい。
一枚一枚に重みがあり、枚数で調整できる。子どもにとっても扱いやすく、「今日はこれだけ」という実感があるらしい。渡す側も受け取る側も、どこか納得感がある。
しかも、キャッシュレスにはない「受け渡しの時間」がそこに生まれる。
手から手へと、金属のひんやりした感触が移る一瞬。大げさに言えば、その瞬間だけ、世界がほんの少しだけ丁寧になる気がするのだ。
考えてみれば、小銭というのは、面倒くさい存在である。かさばるし、重いし、数えるのも億劫だ。
けれど、その面倒くささを別の角度から眺めてみると、不思議と役割が見えてくる。むしろ、その不便さこそが、誰かとのやりとりを少しだけ豊かにしているのかもしれない。
ちなみに、我が家の小銭貯金は、いまだ正確な金額を把握していない。だが体感としては、五回ほどサイゼリヤで「ちょっとした豪遊」ができる程度には育っている気がする。根拠はない。
子どもがもう少し大きくなれば、このささやかな小銭のやりとりも、いずれはキャッシュレスに取って代わられるのだろう。新しいカタチを考える必要な時期かもしれない。
現金には現金の温度がある。
理由はうまく説明できないが、手渡しするお金は、なぜだか少しだけ、あたたかい。



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