足腰って?
- ディーン・ノダ

- 1 日前
- 読了時間: 2分
運動していますか?

と問われて、胸を張って「はい」と答えられる人は、案外少ないのではないか。
かくいう私たちも、つい先日までは「気持ちだけはアスリート」という、なんとも頼りない肩書きを掲げていた。
ところが、最近、YORISOTTEファミリーに、ささやかな異変が起きた。
ブーム、と呼ぶには静かすぎる、けれど確実に日常へと染み込んでくる運動の気配。
それは、息が上がるような激しさとは無縁で、ただ歩くこと、ただ体をほぐすこと。拍子抜けするほど地味で、けれど妙に続いている。
続けてみて、ふと気づく。体というものは、思っているよりも律儀で、そして少し頑固だ。
足が動けば、腰がついてくる。腰が動けば、足も応じる。けれど、足が止まれば、腰は途端に沈黙する。腰だけをどうにかしようとしても、足は知らん顔だ。
順番があるのだ。
「足腰」と一息に言ってしまうけれど、その並びには、ちゃんと意味がある。
人は年を重ねると、静かに、しかし確実に、足から衰えていく。それはドラマチックな崩れ方ではなく、気づいたら少しだけ歩幅が狭くなっている、そんな程度の変化だ。
だからこそ厄介で、そして見過ごされやすい。
上半身は、鍛えれば応えてくれる。筋肉は、努力に対してわかりやすく拍手をしてくれる優等生だ。
一方で、歩くことや走ることは、どこか無口で、成果を表に出すのが下手だ。「こんなに動いているのに」とぼやきたくなる気持ちも、よくわかる。
けれど、その無口さの中にこそ、本質が潜んでいる気がする。
成果が見えないからやらない、ではなく。
見えないところで支えているものこそ、土台になる。
足は、その土台だ。基盤があって、基礎があって、基本があって、ようやく応用に手が届く。順番を飛ばすと、どこかで必ず、つまずく。
と、ここまで書いておいてなんだが、私は専門家でも何でもない。
ただの素人が、歩きながら「なるほど」とうなずいているだけの話である。
それでも、だまされたと思って、ほんの少しだけ足を意識してみるといい。昨日と同じ道なのに、なぜか違って見える瞬間がある。
成果は、派手に現れない。けれど、確実にどこかで、静かに効いている。
そういうものが、案外いちばん、長く続くのかもしれない。



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